鳥海山ー雪山の登山者たちー

 山の写真を撮り始めたのは20歳代の中ごろ。知人から暗室に入ることを勧められて、山で撮ったモノクロフィルムの吹き伸ばしを体験した。引き伸ばし機で感光した印画紙を現像液に浸した瞬間に画像が浮き出てくる驚きと感動を味わう。それをきっかけに写真を趣味にするようになった。時代が変わって今はデジタル写真の真っただ中。撮影から写真を生み出す手法は簡素化され、表現媒体も多様化された。世の中には多種多様な映像が溢れているが、写真の本質は変わらないはずである。美しい山の写真は、そこに登る登山者がいてこそ価値があり意味がある、と思っている。

 初めてカメラを持ったころのモノクロ写真や退色したポジフィルムが手元に残っている。それらを含めて、登山者をテーマにした写真をアップしていきたいと思う。

 

         ソロバン尾根を登る 下方に見えるのは滝ノ小屋

 

               岩氷を纏う七高山に立つ

 

                 真冬の新山にて

鳥海山ー風雪の記憶ー

4、河原宿

 2020年1月中旬、曇り空で時々日が差している。外輪山は雲に隠れていた。風もなく比較的穏やかな天気で登山者が多く、湯の台登山口から立派なトレースが出来ている。滝ノ小屋往復の人たちとすれ違いに、のんびり登って滝ノ小屋に着いた。同行は、この時期の滝ノ小屋泊りが初めてのNさん。小屋に泊るのは、私たちの他に3人、明日は登頂を狙うと言っていた。

 翌朝になって北西の風が吹き始めて次第に強まってきた。。天気は回復に向かっているはずだが、弱い冬型に変わったのだろう。他の登山者は上に向かって出発していった。私たちは河原宿が目標なので最後に出発した。

               朝焼けの滝ノ小屋

 

 

               地吹雪が虹色に輝いた

 

              風が正面から吹き付ける              

 

               時々青空が広がる

 

             激しい地吹雪が吹き付けた

 

 河原宿の台地に上がり、小屋を目指す。西側の尾根に遮られてできた吹き溜まりに押されて小屋は今にもつぶれそうに見える。トイレの建物の陰で風を避けて一息ついた。

       雪圧で崩壊しそうな河原宿小屋 背後に月山森が見えた

 

 早朝小屋を出発していった人たちはどこまで登っただろう。しばらく上部を見ていると、雲が流れて外輪山が姿を見せてくれた。

 

鳥海山ー風雪の記憶ー

3、祓川

 1985年の2月下旬、山仲間と4人で祓川に向かう。祓川にたどり着くために、花立から標高差600m、距離約10㎞の車道を歩かなければならない。

 猛烈な地吹雪の中を車を走らせて花立の先の駐車場に車を止めた。スキーを履いて出発した直後の木境神社までは吹きっ晒し。強風に身体を煽られながら歩く。ブナ林に入ってひと息ついた。降りしきる雪の中、スキーを履いて膝まで潜る雪のラッセルに嫌気がさして、駒止の手前に設営したテントに潜り込む。2日目も吹雪は続いた。わずかに距離を伸ばしただけで善神長根の取り付きでテントを張り沈殿。祓川に着いたのは3日目の午後。ようやく吹雪が収まってきた。

               霧氷を纏うブナ林にて

 

 4日目の朝、雪が止んで風も弱まり上を目指す時が来た。祓川ヒュッテを出て、タッチラ坂を登り賽ノ河原付近から東側の尾根に上がる。時々、地吹雪が視界を閉ざすものの昨日までの比ではない。ダケカンバが揺れる尾根を登り、七ツ釜付近で山頂が見えてきた。

            ダケカンバが群生する尾根を行く

 

              七つ釜付近で山頂が見えた

 

               雪原が広がる大雪路

 

 再び風が強まり、雪が降り出したらホワイトアウトは必定。進退が危ぶまれる事態を予測し、ここを最終到達点にしてヒュッテに戻った。皮肉にも、陽が落ちる直前になって青空が広がり、山頂がきれいに見えた。

 翌日、悪天が迫る空の下、傾斜の無い車道に苦労しながらスキーで下山した。駐車場に着くと、停めて置いたはずの車が見当たらない。山にいる間に平地も吹雪は続いていたのだろう。車は屋根までスッポリ雪に埋まっていた。 

鳥海山-風雪の記憶ー

2、滝ノ小屋

 1984年2月下旬、異常低温注意報(当時は「異常」を付けて発令されていた)を無視して、湯の台を出発した。同行は山仲間のSさん。激しく降っていた雪は次第に小降りになり、スキーを履いて南校ヒュッテを経由、尾根を進む。雪が吹き飛び所々地面が露出する鳳来山はスキーを担ぎ、雪庇を張り出す尾根はスキーで歩いて横堂に着いた。

            大きな雪庇が張り出す月光坂

 

 時々地吹雪が吹き抜けて視界が利かない。風圧で締まった雪の急斜面を登る。月光坂はこのルート上の大きな関門だ。スキーをデポして、ワカンでステップを刻み時間をかけて平坦なブナ林の広がる大黒台にたどり着いた。休む間もなく空身で下りスキーを取りに行く。

        月光坂を登る 見下ろす湯の台付近は吹雪いている

 

 平坦な大黒台はスキーに履き替えて、限界杉を経てブナ林を進む。夕刻が迫り、今日中の滝ノ小屋到着が難しくなる。そんなことになるだろうと予想して背負ってきたテントを東物見付近のブナ林に設営した。明日は空身で滝ノ小屋まで往復することに計画変更する。

           最小限の荷物を背負い滝ノ小屋に向かう 

 

 翌朝、雪が止み風が収まってきた。予定通り滝ノ小屋に向かう。途中から再び吹雪が始まった。ホワイトアウトの中、コンパスを頼りにウスメ岩を越えた。吹雪を避けてしばらく目を凝らしていると滝ノ小屋が見えてきた。

                 小屋を目指す。

 

              地吹雪が走り抜けていく

 

           吹き込んだ雪をかき分けて小屋に入った

 

 時折青空が見える。天気は回復に向かっている。異常低温注意報はどこに行ったのだろう。午後になってから、東物見のテントを回収してふたたび滝ノ小屋に戻った。夕方からふたたび吹雪が始まった。

            吹雪が止み青空が見えてきた。

 

 小屋はテントに比べると天国のように感じる。昨夜の寝不足を取り戻すかのように熟睡した。明けて3日目の朝、風の音が聞こえない小屋の入り口をこじ開けて驚く。1mを越える新雪が積もっていた。異常低温注意報を笑った酬いかも知れない。

 風はそれほどではない。脱出は今しかない。ふわふわの雪を踏み固めてスキーを履いた。私もSさんもスキーによる滑降は初心者レベル。宮様コースの滑降は難航を極め、転ぶたびに底なし沼のようにズブズブ埋まる雪の中でもがきながら体制を整える。そんなことを何度繰り返しただろう。夕刻が迫る平坦な鳥海牧場を足を引きずりながら歩く。疲労で動けなくなる寸前で登山口に戻った。

 

 

鳥海山ー風雪の記憶ー

風雪の記憶

 鳥海山の過去の山行で撮った写真を見ていると、強烈な風雪を思い出させてくれるカットが出てくる。そんな時、ちょっと大げさかもしれないが、何事もなく山から帰って来れた幸運に今更ながら胸をなで下ろしたりすることがある。ただ、写真が残っている山行にはそれほど危機感は残っていない。言い換えればカメラを構える余裕があったということだ。

 20代に経験した冬の鳥海山は、ほぼ滝ノ小屋をベースにする湯の台口からの入山だった。吹雪が荒れ狂う河原宿で現在地を完璧に失ないリングワンデリング、烈風のソロバン尾根で耐風姿勢を保つことが出来ず飛ばされて滑落、吹雪の下山時に大黒台で右往左往して断崖の縁に出てビバークを覚悟したことなどを思い出す。それらの山行では重い機材を背負いながらカメラを出す余裕がなく一枚の写真も撮っていない。当時の天気予報の精度は低くGPSの普及はまだまだ先のこと。登山者はラジオによる天気図作成や重いルートフラッグの携行など、限られた情報で行動していた。一冬に1~2日の晴、と言われた鳥海山の冬の晴天率も、最近はかなり上がっているように思う。

              月山森を背景にして

 

 鳥海山の厳しい季節風を撮影しようと試みた数少ない写真は、私にとって大切な記録だ。その一部を数回に分けてアップしようと思う。

1、鍋森

 30歳ころに立ち上げた小さな山の会。正月合宿は3泊4日の万助道だ。入下山は穏やかな天気だったが、行動日に予定した中二日は猛吹雪に見舞われた。目標を鍋森に切り替えて、吹雪の中を深いラッセルで仙人平を越え、氷化した急斜面を登り鍋森に立った。視界の無い行動はほぼコンパス頼り。確信を持てないまま、仲間の「鍋森!」という声で目標達成ということにした。

            晴天の入山日 ギャップ付近

 

                仙人平を行く

 

                鍋森を登る

 

                吹雪の鍋森ピーク

テントを背負って登った雪の鳥海山

5、中島台

 夜明け前の県道58号の車止めから歩き始めた。除雪された路面がツルツルに凍っている。第一発電所を過ぎて2㎞ほど進むと除雪が終わり、先行する踏み跡が現れた。スノーシュウを履き、踏み跡を追って中島台リクリエーションの森を目指した。リクリエーションの森で先行者の踏み跡を見失い、リッジ状に雪が乗った赤川の橋を渡ることが出来ず、やむなく除雪終点に戻った。

 気を取り直して、鳥越川沿いの林道から獅子ヶ鼻を目指す。溶岩末端崖の沢状を急登。ブナ林の台地に出てテントを設営した。途中で見えた山頂に気持ちだけが先走り、半日を無駄にしてしまった。落ち込んだ心をリセットして、夕方の山頂を見るために出発した。

 行く手に稲倉岳東壁が見えてくると、広い尾根は急に痩せ尾根に変る。山頂を望む台地にたどり着いた時、辺りはすでに稲倉岳の影の中に入っていた。気温がどんどん下がって行く。持っている衣類をすべて身に着けて、夕方の光を待った。次第に風が強まり、寒さに耐えきれずにテントに戻ることにした。

 朝の時点で先行者の踏み跡に頼ったことを反省した。シュラフに入ったころから吹き始めた風は夜半には暴風に変り、ブナの梢を鳴らして吹き抜ける。まるで轟音を上げる機関車が耳元を次々に通り抜けていくように。結局、一睡もできずに朝を迎えた。天気は下り坂。今にも降り出しそうな空の下、複雑な思いを抱いたまま下山した。

                            

国土地理院発行の五万分ノ一地形図を使用した。

テント場の近くで見た山頂

 

最終到達地点で見上げる。

 

雪煙を上げる稲倉岳

                             2019年2月24~25日

 

 1週間後、ふたたび中島台に向かう。今回は除雪終点まで車で入ることが出来た。鳥越川沿いに進み、前回と同じ溶岩末端崖を登りブナ林の台地を進む。先日のテント場を過ぎて、朝日の当たる稲倉岳東壁を見上げた。痩せ尾根を辿り、上がった台地の一段上の、ブナの根元をテント場にした。必要な荷物をザックに入れ、アイゼンを履いて上部に向かう。

朝の光を浴びる稲倉岳東壁

 

凍てつく双耳峰を望む

 

ブナの根元に張ったテント 

 

 天気に恵まれてのんびり雪原を歩き回り、夕方の山頂を撮影する適地を探す。寒さに耐えることが出来なかった前回の反省から、あまり標高を上げないで夕方の時を待った。赤く染まった山頂が光を失うと、急激に気温が下がってくる。逃げるようにテントに戻った。

稲倉岳と、その向こうの蟻ノ戸渡

 

中島台の雪原と稲倉岳

 

岩氷を纏う双耳峰

 

山頂の夕映え                               

                              2019年3月3~4日

テントを背負って登った雪の鳥海山

4、1970~80年代のテント山行を回想する

 4月上旬、駒止めを出発して御浜に登った。扇子森を越えて、溶岩ドームとの鞍部にテントを張る。夕方から西風が強まり吹雪が始まった。強風に押され突風に拉げるテントに一晩中はらはらしながらやり過ごした朝、奇跡的に風が止み青空が広がった。急いでテントを撤収して、新雪で美しく着飾った峰々を眺めながら外輪を登った。

 

 

・奈曽渓谷

 5月下旬、堰堤が次々に現れる奈曽川を遡り、白糸川の合流点の付近から残雪の上を登る。濃霧で現在地がはっきりしないまま雪上にテントを張った。霧が晴れて見えた周囲の状況に驚く。テント場は、周囲を岩壁で囲まれた谷のドン詰まりだった。

 翌日、稲倉岳の肩に突き上げる崩壊したルンゼを登った。

稲倉岳から残雪模様の新山北面を望み、その後、蟻ノ戸渡を越えて御浜経由で下山した。

 

・中島台

 4月中旬、林道終点の横岡第2発電所から歩き始める。春の陽気の中、中島台の広大な雪原を歩き、標高1400m付近の山頂を望む雪原にテントを張った。あまりの穏やかさに、風よけブロックを積むことを怠ってしまった。

  

 まさか吹くはずがないと思っていた風が夜半から吹き始める。油断大敵とはこのことだ。強い東風が地吹雪を伴ってテントを揺らした。朝になって、思い切って外に出てみると、地吹雪は雪面から1.5m位の高さで目線より下を吹いている。風は次第に止み、地吹雪も収まった。これに気を良くして山頂を目指すことにした。

 

・祓川から大雪路

 強い寒波が少し和らいできた2月下旬。花立から車道沿いに、スキー履いて登った。寒気と吹雪と深い雪に登り続ける気力を失い、駒の王子の手前にテントを張る。翌日も吹雪は続いた。深いラッセルに意欲を失い、わずかに進んだブナ林に再びテントを張る。

 祓川ヒュッテに着いたのは3日目の午後。凍り付いた冬期の入り口をこじ開けて中に入った。

 風が収まったのは4日目。朝から青空がのぞいた。アイゼンを履いて七つ釜を越え、風紋が広がる大雪路を登る。この頃から雪がちらつき、再び風が強くなってきた。登行を断念してヒュッテに戻った。

 下山日の5日目。皮肉にも朝から晴天が広がった。山頂を振り返りながら下山の途についた。

 

・ 残雪の大雪路

 4月下旬、スキーを履いて祓川を出発した。濃霧の中、ルートに悩みながら登ると、御田を過ぎた辺りから雲一つない青空が広がった。雲の上に出たようだ。下には視界を塞ぐように雲海が広がっていた。大雪路の真ん中にテントを設営して、付近を散策する。数日前に寒気が入ったために、頂稜は冬の装いを取り戻したようだ。

 翌日も晴天が続いていた。のんびりテントを畳んで下山することにした。上に登ることは全く考えなかった。雪上のテント生活を満喫することで目的を達成できたと思う。ヘタクソなスキーを滑らせて下山した。

 

国土地理院五万分の一地形図を使用しました。

テントを背負って登った雪の鳥海山

3、横堂経由、滝ノ小屋へ

 寒波が去り、久しぶりの晴天が予想された。湯の台登山口に車を置き、ワカンを履いて歩き始める。予定は2泊3日、背負ったザックはけっこう重い。登り始めから膝を越すラッセルが始まった。荷物を背負ったままでは進めないので、空身ラッセルに切り替えた。空身で雪をかき分けてステップを作り、戻ってザックを背負い登り返すやり方だ。尺取虫のように上り下りを繰り返した。普通の二倍の時間をかけて横堂に着いた時には正午を回っていた。目の前に雪庇を張り出した月光坂が立ちはだかっていた。

 今日中に滝ノ小屋に着くことは不可能と判断して、ザックに腰を下ろして体力回復に努めた。月光坂の胸を突く急登を、時間をかけて登り切ったころから天気が回復してきた。

 平坦な雪原の大黒台に出た。立ち並ぶブナの幹の東側に雪が貼り付いている。大雪の時は、時々東風が吹くことがある。傾斜の無いブナ林を空身ラッセルでのろのろと進んだ。

  ブナ林を進むと限界杉(一本杉)が現れた。雪を纏った姿はまさにモンスター。根元から分かれた二本の大杉は、このコースを歩く時の重要なランドマークだ。午後2時を過ぎたので、明るいうちに滝ノ小屋に着くのは不可能だ。残された体力や雪の深さを考えると大黒台でのテント泊が確実になった。

 右に現れた沢状の窪みに沿って登り、斜面の傾斜が少し増す手前で雪面を整地してテントを設営した。ブナ林の中に、西に傾いた太陽から夕方の光が差し込んできた。

 夜中に雪が降ったようだ。テントを滑り落ちる雪の音で目が覚めた。辺りは霧に包まれている。簡単に朝食を済ませてテントを撤収。今日もラッセルの一日が始まった。西物見を越えて、ようやくラッセルから解放された。霧が風に飛ばされて、あっという間に視界が開けて外輪山が見えてきた。登って行くと、雲の影が流れる上部の雪原を行く単独登山者が見えた。

外輪山が見えたのはこの時が最後。西風が吹き、雲が増えて河原宿から上部を隠した。

 滝ノ小屋で身支度を整えて上部に向かう。ソロバン尾根に上がった時、風か強く吹き始めたので登高を諦めて小屋に戻ることにした。冷え切った小屋で、コーヒーを啜りのんびりしていた時、外から呼ぶ声が聞こえた。入り口に立っていたのは、厳冬期単独日帰り登頂を課題にしているSさんだ。新山を踏んできたと言う。日帰りであれば、余計な装備を省き身軽に登ることが出来る。加えて、Sさんは登り下りにスキーを使ってスピードアップを図っている。しかし、それだけで厳冬期単独登頂ができるわけではない。装備に見合った強靭な体力、天候や地形の見極めなど、総合的な登山力が要求される。5年連続と言っていた。素晴らしいことである。

 翌日はどんよりした曇り空で明けた。ふたたび河原宿に登り、雪面に立てたルートフラッグを回収する。天気は明らかに下り坂。荷物をまとめて、滝ノ小屋を後にした。                 

                              2015年1月24~26日

*概念図は国土地理院発行の五万分ノ一地形図を使用。

テントを背負って登った雪の鳥海山

2、北面の展望台 丸森

 丸森のピークにテントを張り朝夕の鳥海山北面を眺める、という計画で中島台リクリエーションの森を出発した。同行は山仲間のSさん。Sさんは都合により明日の朝に下山する。雪に覆われた県道52号線を進み、ヘナソ沢を過ぎた辺りから赤ハゲの急斜面に取り付いた。踏み抜きに悩まされながら赤ハゲのピークを過ぎると、尾根上にはブナの巨木は立ち並ぶ。丸森に続く痩せ尾根を辿り、鞍部から安定した雪庇の上を登った。丸森が近くなって、霞んだ空の下に新山が見えてきた。

 丸森のピークに着き、雪面を削ってSさんが担ぎ上げてくれた4~5人用の大きなテントを設営した。周囲に雪のブロックを積み完成である。夜半、東風が強まり雨が降った。ここは「風の名所 丸森」と言われるだけあって、テントが風にはためいている。朝になって風向きが変わり雨が止んだ。次第に雲が消えて姿を現した鳥海山をじっと見ていたSさんが、「では、・・・」と下山して行った。

ブナが立ち並ぶ赤ハゲの尾根

春かすみの空に新山が見えた

二日目の朝 テントから見る鳥海山

 スキーで下山したSさんを見送り、奥深い山中に一人残された寂しさを振り切って出発準備をした。昨日の登りで何度も雪を踏み抜いたりして腰を痛めたようなので無理はできない。それに明日は大きなテントを背負っての下山が控えている。

 七高山から下りてくる北尾根の末端近くで、火口のような不思議な地形を見て下山を決めた。山体崩壊から取り残されたような窪地が標高1400m付近にあった。

下山途中、眼下に見えてきた丸森のピークに赤いテントを確認して安堵した。あとはテントに戻り、残された時間を心ゆくまで山を眺めよう。

 夕日が稲倉岳の肩に沈んで行く。日没と共に西風が吹き始めた。風は次第に強まりテントを激しく揺らした。気温が異常に上がり張り綱が緩み、雪が解けてできた床の隙間を風が吹き抜けて行く。外に出ると、立って居られないほどの風が吹いていた。テントに入り、じっと朝を待つしかない。テントを持ち上げるような突風は明け方まで続いた。

 いつの間にか明るくなっていた。風は少し収まって、見上げる山頂に光が当たっている。なだらかな扇子森も見えた。

 朝食を済ませてテントの撤収にかかる。飛ばされないように身体全体を使ってテントを丸めて何とかザックに収めた。雪面を整地して下山を開始する。登ってきた時より重くなった荷物を背負い、振り返ると新山が笑っていた。

                              2014年3月26~28日

*概念図は国土地理院5万分の1地形図を使用しました。



 

テントを背負って登った雪の鳥海山

 鳥海山ではテントの設営が条例で禁止されています。テントを張る行為が地表に与える影響がとても大きいからです。以前、テント場として大勢の登山者が利用した河原宿や鳥海湖の現状を見れば、地表に与えるインパクトは明らかです。自然に与える悪影響を極力避けなければならないことを理解した上で、私は雪上のテント泊は問題ないと考えていますが、いかかがでしょうか。数m積もったの雪の上のテント泊は、地上数mの空間で行われる行為です。地表に与えるインパクトはゼロに近いはずです。排泄物処理が大きな問題ですが、携帯トイレの使用や、1~2泊位であれば耐えることだって可能な範囲です。

 寒さに耐えてそんなことをする意味があるのか、と疑問に思われるのはもっともです。雪山は予定した時間で行動することが難しく、途中で日没を迎えてしまうこともあります。私は写真撮影を目的に登ることが多く、朝夕の風景を見たいために時々テントを利用しています。そんなことより何よりも、テント泊は自然の息遣いを身近に感じることが出来るという大きな魅力があるからです。雪面からジワリジワリと浸みてくる寒気、テントを揺さぶる風の息遣い、吹き荒ぶ吹雪の音、薄い布切れ一枚を通して自然の鼓動が伝わってきます。

 テントを背負って登った過去の山行を、振り返ってみようと思います。 

 

1、残雪の笙ヶ岳

*広範囲の地形については、前回のブログに掲載した地形図を参考。

 臂曲がりの万助登山口に車を置いて歩き始めた。まもなく雪に覆われた登山道を、ルートを探しながら登り渡戸に着いた。雪に埋まった檜ノ沢を渡り、対岸の尾根に上がる。ブナに覆われた尾根をしばらく登ると、812mの標高点付近に小さな雪原が広がっていた。地形図を見て目星を付けていた尾根上の平地で、ツェルトを張るにはもってこいの場所だ。さっそく、細いブナと、雪に突き刺したスコップの間にロープを張り、ツエルトを吊り下げた。申し訳程度に風よけのための雪のブロックを積み、今日の我が家が完成。明日は早朝に笙ヶ岳に向かう。日没までの時間を使って東竜巻付近まで下見に登った。次第に風が強まり、雲が降りてきて付近は濃い霧に覆われた。

 テントは長坂の尾根の陰になり、風のない静かな夜だった。夜半に外を見ると満天の星が広がり、酒田の街灯が輝いていた。夜明け前に、最小限の装備を持ち、アイゼンを装着して笙ヶ岳を目指して出発する。

夜明け前の外輪山を見る。山体の陰になり夜明けが遅い。

千畳ヶ原に光が当たり、外輪の上に新山の頭が見えた。

東竜巻付近の雪庇に出来た亀裂を前景に笙ヶ岳を望む。

笙ヶ岳一峰の三角点に着いた。

凍てつく鳥海山の眺望が広がった。

 

 下山途中、眼下にポツンと青いツエルトを見出して、急に孤独感に襲われた。

                               2013年4月4~5日

 

*概念図は国土地理院発行の閲覧地図を使いました。

鳥海山ー山歩き雑感ー

22、鍋森から噴出した溶岩流

 鳥海山山頂の南西の中腹に、笙ヶ岳と月山森の大きな尾根に挟まれた細長い地形があります。ここは、鍋森から流れ出た溶岩が冷えて固まり形成され、その後ブナに覆われた静かな場所です。並走するように伸びる三本の登山道があり、大きな尾根をひたすら登る長坂道、檜ノ沢左岸の小さな尾根を登る尾根道の万助道、もう一つは西のコマイ(かつての南のコマイ)に沿って登る二ノ滝口。どれも御浜を目指す登山道です。

 

 地形図を見ると、笙ヶ岳と月山森の大きな尾根に挟まれた細長い地形に顕著な溶岩堤防があることに気が付きます。万助道が途中から辿る溶岩堤防は万助尾根と呼ばれています。

笙ヶ岳から見た万助小舎

万助尾根を登る

 国土地理院技術資料を参考にして、地形図に溶岩の流れを書き込んでみました。鍋森から噴出した熔岩は、笙ヶ岳と月山森の大きな尾根に挟まれた狭い地形を流れ下り、カルデラ壁が狭まった所を過ぎると一気に広がって止まった様子が分かります。

 中の沢溶岩流と万助道溶岩流には、時間的隔たりがあるのですがどちらも鍋森付近から噴出したと言われています。中の沢溶岩流に万助道溶岩流が重なっていますが、この二つの溶岩流の境にはゴルジュが発達しています。溶岩流が接する部分を流水が浸食するのでしょうか。西ノコマイの三ノ滝付近や、檜ノ沢の渡戸下流部分に溶岩を穿つゴルジュがあります。

檜ノ沢のゴルジュ

二ノ滝渓谷三ノ滝付近

 




長坂道登山口付近を流れる山ノ神沢
約300m上流に湧水点がある

湧水が流れる二ツ沢

 鍋森から噴出した溶岩流の末端には「洞腹の滝」をはじめとして湧水点が多数あります。

 溶岩流末端から湧き出す湧水は中島台の獅子ヶ鼻湿原が知られています。溶岩流によって形成された鳥海山には、いまだ知られていない所も含めて数多くの湧水点があると言われています。

 鍋森から流れ出た溶岩流は、鳥海山のほんの一部を形成しているだけですが、山ノ神の水場、洞腹ノ滝、二ノ滝渓谷、檜ノ沢、二ツ沢など、多くの興味深い場所があります。鳥海山の山頂を目指すだけではなく、長坂道、万助道、二ノ滝口を繋ぐ連絡道を利用して中腹を歩き、過去の火山活動に想いを巡らすのも良いと思います。

*中腹はツキノワグマの生息域です。そのことを忘れないようにしたいと思います。

*概念図は国土地理院発行の地形図を使用しました。

鳥海山ー山歩き雑感ー

21、山頂御室

 山頂御室を見ると、「こんなすごい所に・・・」といつも思います。国内には標高3000mを越す山頂付近に建つ山小屋が数多くあり、長年の風雪に耐えています。鳥海山の山頂御室の何がすごいかというと、それは溶岩流の上に建っているということです。日本の山はほとんどが火山です。ほとんどの山小屋は溶岩流の上に建っているのですが、鳥海山の御室は、今からわずか221年前に噴出した溶岩流の上に建っているのです。新山が噴出する前、大物忌神社は荒神ヶ岳の隣,今の新山溶岩ドームの位置にあったと言われています。新山の噴火で跡形もなくなった大物忌神社は新山溶岩流の上に間もなく再建されました。昔の人々の、鳥海山信仰の強い力を感じます。

行者岳から見た新山と山頂御室

御室の建物群

新山溶岩ドームに守られているようにも見える

冬を迎える山頂

雪に閉ざされた山頂御室と新山ドーム

 御室で長い間小屋番を務めてきた知人がいます。「突然鳥海山が大噴火を起こす可能性はあります。マグマが噴出するとしたら小屋の下から突き上げてくるのでしょう。覚悟はできていても、脳裏に不安が走ることがあります。」御嶽山の大噴火で、大勢の登山者が犠牲なった後の会話です。

 誰もいない御室の期間外の小屋で、シュラフにくるまって微睡んでいるとき、フッ!と知人の言葉を思い出した時がありました。

鳥海山ー山歩き雑感ー

20、千畳ヶ原

 千畳ヶ原は憧れの地。周囲を峰々に囲まれた緩やかな湿原が広がっています。厳しい山行が続いた後は、いつも広大な湿原に敷かれた木道に腰を掛け、周りを取り囲む峰々を見渡し無為の時を過ごしました。それでも、ここに来ることはなかなか簡単ではありません。二ノ滝や万助を登って来るか、鳥海湖から下って来るのか、巨岩を縫って幸治郎沢を下るか、いずれの行程もそれなりに歯ごたえがあります。

 冬は、千畳ヶ原を目指すことが困難への挑戦のようなもので、数回訪れただけです。真白な雪原が眩しかったことを思い出します。

月山森を背にして

 最も多く訪れたのは、草紅葉が爽やかに揺れる秋です。障壁のように立ち塞がる笙ヶ岳、鍋を逆さにしたような鍋森や扇子森、冬を待つだけの文珠岳と伏拝岳、華やかに着飾った月山森。天気さえ穏やかならば、個性豊かな峰々に囲まれた琥珀色の草原をのんびり彷徨うことができる季節です。

草原と笙ヶ岳

草原を行く

天国への階段

 なぜここに千畳ヶ原が出来たのでしょう。

 大昔、西鳥海火山体が山体崩壊を起こし馬蹄形カルデラが形成された。その後、東鳥海火山が活動を始めた。活動をつづけた東鳥海火山体は西鳥海をしのぐ高さに成長し、噴出した溶岩は西鳥海馬蹄形カルデラの底に流れ込み溶岩台地を造った。この溶岩台地の上にスコリア(火山砕屑物、火山礫や火山灰のこと)が、厚さ10mほど降り積もり千畳ヶ原の土台が出来た。土台の上に生えた植物の屍骸は低温のために腐敗が進まず、泥炭化した泥が堆積して湿原が形成された。

 このような過程で千畳ヶ原が出来たと言われています。

文珠岳付近から見下ろした千畳ヶ原

クロ沢のスコリア露頭

 溶岩台地に降り積もり千畳ヶ原を造ったスコリアは、いったいどこから来たのでしょうか。

鳥海山ー山歩き雑感ー


19、石祠

 鳥海山を吹浦口あるいは湯の台口から登ると、途中からかつての登拝道を辿ることになります。登拝道には拝所があり、石祠が置かれています。これまでの山行で多くの石祠にカメラを向けてきました。その中で、周囲の環境や景観と一体になった祠の写真を何点か上げてみます。

八丁坂大神
八丁坂の中間 ハクサンシャジンやトウゲブキが咲くお花畑の中に

大雪地大神
心字雪渓の入り口 小さい立像と首のない座像が共に祀られている

薊坂大神
薊坂を登り切った所 庄内平野日本海を望む

御嶽大神
伏拝岳の三角点近く 大物忌神社と新山の拝所

開山大神
役行者が開山したと言われる行者岳の鞍部にある

御田ヶ原大神
扇子森のピーク付近 新山を遥拝する

御山大神
後ろの岩は「蛇石」と言われている ハクサンイチゲに囲まれていた


 拝所の石祠は、大正12年ころに酒田の商人が奉納しました。各拝所の祠は形や大きさがほぼ同じで、作成や奉納の詳しい経緯は分かっていないようです。
 登拝者は、各拝所を回り、祠を前に「綾に綾に奇しく尊 鳥海御山の神の御前に拝み奉る」と、神々しい景観を前にして唱えて自然との一体感を感じていたと言われます。

 山中で出会った石祠を前にして、「あやにあやに・・・」という拝詞を心の中で唱え、かつての信仰登山に想いを馳せることは、鳥海登山をより味わい深いものにすると思っています。

*参考文献「史跡鳥海山ー国指定史跡鳥海山文化財調査報告書ー」

 

鳥海山ー山歩き雑感ー

18、スノーブリッジ

 日本海からたっぷり水蒸気を吸い上げて吹き荒れる季節風は、鳥海山に大量の雪を降らせます。強い風は雪を吹き飛ばし、尾根やピークの東側に吹き溜まりを作ります。雪は真夏でも融けずに残り、きれいな残雪模様を描きます。年によっては、新しい雪の降る季節になっても万年雪として越年する場合もあります。

 新山の東側に吹き黙る雪は、新山と七高山を繋ぐような形から、登山者の間でスノーブリッジと呼ばれています。

 スノーブリッジを作り出す風がどのように吹くのか疑問に思い、冬に撮影した写真を見ながら、外輪内壁(カルデラ壁)の岩氷の成長方向に注目してみました。冬の外輪内壁には吹き付ける季節風によって岩氷がびっしりと張り付いています。その岩氷が成長する方向は風向と一致します。

スノーブリッジを行く登山者 外輪内壁の岩氷は右を向く(南向き)

 

新山から見る七高山西壁(外輪内壁) 火口壁の岩氷は左を向く(北向き)
(手前は新山の岩峰)

 1枚目の写真から、スノーブリッジより南側(右側)の岩氷が成長した方向は南向きで、風は矢印のように南から吹いたことが分かります。二枚目の写真の外輪内壁は、七高山の位置から見るとスノーブリッジの北側(左側)で、岩氷が北向きに成長していることから、風は矢印のように北から吹いたことになります。

 


 地形図で見ると、新山を南北に巻くようにして吹く風がスノーブリッジの位置で衝突して、ここに大きな吹き溜まりが形成されることが分かりました。

七高山から見た成長途中のスノーブリッジ

 冬の山頂付近で、何故その位置にスノーブリッジが出来るのか不思議さを感じていながら、雪氷に覆われた頂稜の美しさに目を奪われて冷静に観察できなかったことが今になって悔やまれます。